
突然ですが「オオイヌのフグリ」って知ってますか?
春になると咲き始める青くて可愛い花です。小さくてポツポツ咲いてるので「あ、オオイヌのフグリ」とつい何気なく呼んでいますが、この植物の名前をつけたのが牧野富太郎という人物です。

オオイヌのフグリ
日本植物学の父として知られている人で、日本に咲いてる植物の名前はこの人がたくさんつけてるんですよね。
また日本屈指のボタニカルアーティストとしても有名です。画家でもあるんですね。
牧野富太郎ってどんな人なんでしょうか??わかっている範囲でまとめてみました。
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最終学歴は小学校中退
この人なんと小学校すら卒業していないそうです。
今の時代と明治初期では若干違うかもしれませんが、それでも当時でも大学というものも存在し大卒の人たちもいるなかで小学校中退。
富太郎は子供の頃から優秀で小学校に入る前に寺子屋みたいなところに通っていたそうなんですが、そこでいろんなことをすでに学んでいたので小学校の授業がつまらなかったらしいんですね。
なので早々に小学校を中退してしまいます。
また明治初期は士農工商の身分制度の価値観が残っていて、商人の出の富太郎は武士の子供らに挨拶しなければいけなかったらしいんですね。富太郎はそういう身分とか縦社会に全く興味がなかったらしく、そういった部分も中退の理由のひとつだと思います。
植物の名前が決まっていない事に疑問を持つ
富太郎は子供の頃から植物にとても興味があり、後に自分は「植物の精」なのではないか?と語っているほどです。
そんな少年富太郎が疑問に思ったこと。それは、
植物の名前が決まっていない。
ということです。
明治初期の頃は植物に学名というものがつけられていなかったので、おんなじ植物でも地域によって呼び名が違っていたそうなんですね。
決まりがないから、思い思いに勝手に名前をつけていた、ということですね。当時の人たちはそんなことに全く関心はありませんでしたが、富太郎にとっては重大な問題だったそうです。

富太郎が植物採取に使っていた道具
そこで富太郎は植物を採取して分類していったみたいです。
1000種の植物の学名をつけた
富太郎は約1000種かそれ以上の植物の名前をつけたと言われています。
1000種といっても「この植物は何々〜」と勝手につけていたわけではなく、ちゃんと種類ごとに分類して植物の図版も描いて学会に発表しての1000種ですからまあすごいですね。
日本に現存する植物が約7000種といわれていますから、その7分の1は富太郎が名前をつけているということになります。
冒頭でも書きましたが「オオイヌのフグリ」なんかは富太郎がつけた植物の名前としてよく知られていますね。
フグリって男性の睾丸のことなので、大きい犬の睾丸ってことでネーミングセンスもなかなかですね。

牧野記念庭園

記念館に貯蔵されている標本
練馬区にある牧野記念庭園には富太郎がまとめた植物の標本が展示されています。
標本番号「164517」とあります。他の引き出しの標本には「293886」と書いてありました。 一体いくつの植物を標本にしたんでしょうね??
画家としても優れた才能を見せた

富太郎が描いたボタニカルアート
植物学の父と呼ばれる学者としての一面の他にも、画家としても優れていたそうです。
富太郎の描くボタニカルアートは本当に細密で素晴らしいですね。これは画家を目指していたわけではなく、植物を細部まで観察して植物のことを本域で理解しようとしたから培われた技術だと思います。
細密に描くには観察が重要ということですね。

とても詳しくて細密
富太郎は植物の全体図だけではなく花弁の数や種、葉脈の本数など細部にわたってよく観察して描写しています。毎日夜遅くまで植物の絵を描いていたそうですよ。
常に貧困や差別と戦っていた
お金はなく貧困だった
今でこそ植物界の権威として名高い富太郎ですが、当時の人たちは植物分類に何の興味もないので当然お金はなかったみたいです。
ゆっても植物の観察ばっかりしてるわけですからね。
富太郎は元々酒屋の跡取りとして生まれていて、子供の頃こそ経済的に裕福だったそうですが、植物の研究に没頭したかったため、実家の仕事は番頭に任せて自分は各地飛び回って植物を採取していたそうです。
初めのうちは実家の酒屋を回してくれる人がいるので、ある程度お金が入ってきたそうですが、そのうち酒屋の経営が立ち行かなくなり、そこからはお金が入ってこないわけですから経済的には困窮したそうです。
借金とりが家にきた時なんかは、奥さんが対応して富太郎はどこかに隠れていたそうですね・・・。
常に権威との戦いがあった
先にも書きましたが、富太郎は小学校中退です。
富太郎は大学の教員として働いたりもしていたそうなんですが、大学の教授になるには大学を卒業していなければいけなかったらしいんですね。
なのでずっと准教授だったそうです。
富太郎は誰よりも植物に対して深い知識を持っていて誰よりも結果を出していたのに、ずっと大学内での立場はアシスタントだったってことですね。
とにかく植物の研究にのみ没頭したかった富太郎は、組織の中の序列というものに全く興味を示そうとしなかったので、そのうち大学の教授らは富太郎を疎ましく思うようになり何度も圧力がかかったそうで、時には追放されそうにもなったりしたそうです。
同業の味方も少ない中で、いよいよお金もなくなり多額の借金を背負っていたそうですが、富太郎はそれでも植物の観察や研究をやめなかったそうです。
まとめ:日本植物学の父と呼ばれるまでに
長年ひとつの事に情熱を注ぎ続けた富太郎は、現代では「日本植物学の父」として名を残すまでになっています。
富太郎が出版した「日本植物志図篇」は非常に完成度が高かく海外からの評価も高かったそうですね。

日本植物志図篇

目次ですかね?

植物の詳細が書かれています
生涯において貧困とは付き合い続けたそうですが、最終的には結果を残したということですね。
富太郎の一生を見てみると、どんな環境下においても情熱を持って何かを追求することの大切さを知ることができます。
富太郎は植物観察のワークショップみたいなこともやっていたそうですが、子供たちが「この植物は何?」と聞くと穏やかな表情で丁寧に説明していたそうですよ。