カリグラフィーには長い歴史があり時代ごとに繁栄や衰退を繰り返したと言われていますが、現代から最も近しい時代にカリグラフィが繁栄していたのが、19世紀後半から20世紀初頭だと言われています。ほんの100数十年くらい前の出来事ですね。
中世ヨーロッパ時代のカリグラフィは宗教色が強く、写本(=主に宗教を広めていくための書物)の制作が重視されていましたが、印刷機の発明や商業主義に時代が変わっていく流れで、カリグラフィも徐々に商業的な役割を担うようになります。その後カリグラフィはヨーロッパからアメリカに渡り、ペンマンシップというビジネス習字に変化していったと考えられます。
そんな20世紀初頭のカリグラフィについて考察を入れながらまとめていきたいと思います。
「ビジネスライティング」と「エングロス」
商業カリグラフィの役割は大きく分けてふたつに分類されていったと考えられます。ひとつは「ビジネスライティング」、もうひとつは「エングロス」です。
ビジネスライティング(記帳業務など)
19~20世紀初頭のアメリカ企業では、日々行われる取引の記帳業務や、決算時に提出する財務表の作成などといった現代と同じような事務的作業が発生しており、タイプライターが一般化するまで簿記担当者たちはペン習字で記帳業務を行っていたと言われています。(※1)
また議会や法廷、出版などで人の発言を書き写す口述速記者などの職種もあり、早く正確に文字を書く能力を求められていたと考えられます。(※2)
そのような需要に伴い、当時のビジネスカレッジでは簿記と同時に習字法を教えていたと言われていて、この時代の商業キャリアを目指す若者たちにとってペン習字(カリグラフィ)はある程度優先度の高い科目だったと推察されます。定評のあるビジネスカレッジの卒業生は就職に有利とされ、卒業証書は企業が学生を入社させる判断基準のひとつだったと言われていたそうです。
しかしヨーロッパから伝わってきた初期アメリカのカリグラフィ(ラウンドハンド筆記体)は速記に特化しておらず、あまり実用的ではないとされてビジネスシーンへの対応が求められていました。
そこでカリグラフィは、後述する習字家たちによって、指先だけではなく腕全体の運動で書くペンマンシップという技術に変化していったと言われています。宗教色の強いトラディショナルな習字法と違い、商業ベースに合わせたライティング技術として発展したことが特徴のひとつと言えそうです。
※1:企業にタイプライターが導入された後でも、熟練したペンマンの手書きに戻す例もあったと言われているようです。
※2:口述速記に関しては、ペン習字はのちにステノグラフィ/ stenographyと呼ばれる速記法に置き換わっていったと考えられます。
エングロス(商用書類などの装飾デザイン)
エングロス(=魅せること)とは中世時代の写本装飾技術(イルミネーション)をビジネス仕様に変化させたようなデザイン様式を指していると推察されます。
文字がまだ読めない人も多かった中世時代、宗教写本を華やかに彩るイルミネーション技術は宗教そのものに権威性を持たせ、古格な宗教家たちの既得権益を保つ役割を担っていたとも言われています。
このような思想や装飾技術はビジネスシーンにも引き継がれ、公的文書の作成、有価証券(株券・手形・小切手)などの書類を始めとした商用書類の装飾、議会の決議書、また要人の功績・実績を讃えるような書面のデザインなどに反映されていきます。
写本時代の装飾技術や思想が反映されていることがエングロスの特徴のひとつであり現代のグラフィックデザインと少し違う部分とも言えそうですが、他にも領収書(ビルヘッドレシート)や広告、卒業証書、パンフレットの表紙など今と変わらないようなデザインも制作されていたようです。
商業カリグラフィー発展の流れ
初期アメリカで習字見本が制作される
18世紀後半、アメリカ発祥の地と呼ばれるニューイングランド地方ではすでにラウンドハンドと呼ばれる筆記体が使われていたと言われています。学校教育ではヨーロッパ習字を模したカリグラフィの教材を参考に、生徒に習字教育を施す流れができていたそうですが、当時のアメリカ人たちが書くカリグラフィは理想的な美しい習字には少し遠かったようです。
ジョン・ジェンキンスによる文字のモジュール化
学校教師だったジョン・ジェンキンス(1755–1822年 / 以下ジェンキンス)という人物は、長い時間をかけても習字が上手にならない生徒たちを見て、教育法に疑問を持ち始めます。
当時の生徒たちはイギリスの影響を受けたカリグラフィ教材を見ながら延々と文字を書き写していたそうですが、それでは書けるようにならないと思ったジェンキンスは、別の教育法を考案したとされています。
彼は、カリグラフィの全ての文字は、いくつかの基本的要素から構成されていると分析し、その基礎モジュール(※1)を理解することが美しいカリグラフィを書くための近道だという主張を「Art of Writing / アートオブライティング(1791年出版)」という書籍で紹介しました。これによって生徒たちの習字が向上したと言われています(※2)。ただジェンキンスの方式は速記を重視しておらず、早く書くには向いていなかったとも言われているようです。
※1:モジュールとは規則性を持ったパーツのこと
※2:ジェンキンスのモジュール化されたテキストはあくまで教育現場での効率性を重視したのみで、実際の筆記の実用性においてはそこまで革命的ではなかったという説もあり解釈は人それぞれのようです。
参考:ジョン・ジェンキンスとアート・オブ・ライティング:ハンドライティングとアイデンティティ
カリグラフィに速記性が加わる
ジェンキンスの教本は海を渡り、おそらくヨーロッパでも閲覧されたと言われています。このジェンキンスのラウンドハンドモジュールを参考にさらに習字をビジネス仕様に発展させる基礎を作ったとされる人物がイギリスに登場します。
ジョセフ・カーステアーズによるスピーディーなランニングハンド
ジェンキンスのアメリカ習字見本をさらに進化させたと言われているのがイギリスの書道家ジョセフ・カーステアーズという人物です。カーステアーズはジェンキンスが作成したモジュールの数を増やし、さらにラウンドハンドをより早く書くためのメソッドを作ったとされています。
カーステアーズが提案するランニングハンドの特徴は以下です。
- ペンリフトを最小限に抑える
- 指先、肘、肩を連動させて腕全体で書く
ひとつ目は、できるだけペンリフト(ニブの先端を紙から1度持ち上げる動作)をしない事で筆記スピードを上げるというものです。モジュールをひとつひとつ丁寧に書いていくのでは何回もペンリフトしなければならないのに対し、ランニングハンドはニブの先をできるだけ紙から離さずにサラサラと書くことで飛躍的に筆記スピードが上がったと予想できます。ポインテッドニブの機能を最大限活かした筆記方法に思えます。
ふたつ目は、指の動きと腕全体の動きを連動させている事です。小文字などの細かなストロークを書く場合には肘関節と肩関節の屈曲運動(※)を指先と連動させて書くように提案しています。また小文字の単語を書いた後すぐに長い線を書くような練習方法をテキストにたくさん記載しており、細かいストロークから長めのストロークにすぐに移行できるように「ペンが自由に早く動く」ような習字を目指していることがわかります。
このカーステアーズのメソッドは当時の保守的なイギリスでは徐々に忘れられ、代わりに後のアメリカ習字の発展に大きな影響を与えることになったと言われているそうです。
※1:屈曲運動とは関節の角度を狭くする動きのこと。
ビジネスシーンでの実用的なカリグラフィ
カーステアーズの教本は再び海を渡り、当時アメリカのビジネスカレッジで習字と簿記の指導を行っていたベンジャミン・フォスター(Benjamin Foster / イギリス出身)という人物によって普及していきます。しかし当時ビジネスカレッジで習字を学んだ学生がいざ商業シーンで筆記を行うと、未だ実用的ではないという評価を受けることもあったと言われているそうです。そこからさらに習字を発展させ、より実用的なビジネスライティングを産んだ書家たちについて考察していきます。
実用的ビジネスライティングを開発したアルビン・ダントン
実用的ビジネスライティングの礎を産んだのが具体的に誰なのか現時点の自分は断定的にわかりませんが、アルビン・ダントンという人物がその一角を担っていたと考察されます。
彼はあまり文献が見つけられず不透明な部分もありますが、後述するスペンサリアン体に酷似した書体をすでに開発していたとされている人物です。
彼の習字はカーステアーズまでのラウンドハンドをベースとした文字に比べてモノラインで書かれる部分が多く、シェード(筆圧をかけて線を太くする部分)をかける部分とのコントラストが強いのが特徴的です。
これはスピード重視で文字を書く機能性を重視した結果生まれた習字法だと推察されます。この習字法はスペンサリアン体と非常に似ており、事実ダントンはスペンサーと裁判で争った記録があると言われています。下記に掲載するリンクにダントンの習字教本が示されていますが、スペンサー習字よりもダントンの習字の方が優雅だと評価する人もいるようです。
プラット・ロジャース・スペンサーによる習字法がビジネスライティングの標準になる
アメリカンペンマンシップの父と呼ばれるスペンサー氏。イギリスの書家カーステアーズが作った習字法はアメリカで普及し、上述したダントンやスペンサー氏の手によって完全に実用的なビジネスライティングへの完成系へと発展していきます。
ダントンとスペンサーの習字は酷似しており、どちらがこのスタイルの真の生みの親であるかは定かではありません。しかしこの書体がスペンサリアン書体として広く認知され名声がスペンサー氏にあることは事実のようです。
若い頃から習字に関心があったスペンサーは、雇用先の帳簿付け業務や政府機関で会計監査の仕事に従事する中でその精度をあげていったと推察されます。
その後スペンサー習字は1848年に教本として出版され、自身が運営する学校で教育が行われるようになります。多忙の中でスペンサー自身は病に倒れたそうですが、彼の子供たちによって普及活動は続けられ、それにともなって一般の教育機関にも取り入れられたスペンサー習字は、事実上ビジネスライティングの標準になったと言われています。
宗教的装飾から商業用デザインへの変化
写本文字がビジネス習字に変化したように、中世写本の装飾技術(イルミネーション)も商業用のデザインへと変化していったと推察されます。装飾的デザインは中世時代から重要な書類(宗教写本や土地の権利書)に多用されてきたようですが、19世紀から20世紀初頭の時代においてもそのような思想は受け継がれ、行政機関やビジネスシーンの一部に反映されていたようです。
パトリック・ウィリアム・コステロによるエングロス
エングロスとは上述しているようにカリグラフィ&ペンマンシップ技術を使った商業用装飾デザインの総称のようです。エングロスの職人は何人かいたと思われますが、P.W.コステロというエングロッサーが著名とされているようです。
レタリング、点描やクロスハッチングを使ったイラストレーションなどの技術を磨いた彼は優れたエングロスの名手として細密なレイアウト作業を得意とし、様々な仕事を受けたと言われています。
エングロスの主な使用例として、フォーマルなディナー会やオペラのプログラムの表紙デザイン、結婚証明書や学校の卒業証書、ホテルの専用便箋のレターヘッドのデザイン、また多様な政治家や軍人、実業家など著名な人物を称える文書の装飾デザインを担当していたようです。
結婚証明書 / 雑誌の表紙 / パンフレットの表紙 / ディナー会プログラムの表紙 / オペラのプログラムの表紙 / 高校や大学の卒業証書 / 行政やホテルなどの専用便箋のレターヘッド / 政治家や実業家などの功績を称えるための文書デザイン /
パトリック・ウィリアム・コステロ / Patrick William Costello(アメリカ
1866–1935年)
同じカリグラフィから派生した技術でも、ビジネスライティングのような速記性を求められる習字と違い、エングロスはレタリングやイラストレーションなどを組み合わせて1枚絵を制作するグラフィックデザインのような物のようです。ひとりの人間が様々な技術を習得する必要があり、一流のエングロッサーになるには長い時間がかかったと言われています。
写本装飾の技術が具体的にどのようにエングロスという技術になっていったか、途中経過の詳細は現時点での自分はわかっていません。
企業のビルヘッドレシートのデザイン
ビジネス習字 教育機関の登場
企業内では簿記係や速記者などの需要が少しずつ増していきますが、綺麗で鮮明な文字を書ける従業員はまだ少ないと言われていたそうです。立派な文字を書くことができる従業員を雇うことは困難とも言われていたそうで、企業の書類に書かれる手書き文字のほとんどが目に不快であり判読できないと評価する人もいたようです。
それに伴ってそのような人材を輩出するためのスクールが多く設立されていったと考えられます。「簿記」「速記」「タイプライティング」「ビジネス」などの商業シーンで通用するようなスキルを身に付けさせるための科目が用意され、また一般教養の指導も重要視されていたと言われています。そんななか、ペン習字とビジネス教育のリーディングスクールをうたう機関も登場していきます。
ザナー・ブローサー社 / Zaner-Bloser によるスクール&メディア運営
チャールズ・パクストン・ザナー(Charles Paxton Zaner)とエルマー・ウォード・ブローサー(Elmer Ward Bloser)という2人のペンマンによって設立されたザナー・ブローサー社。1888年、同社がオハイオ州 コロンバスに「ザネリアン・アートカレッジ」というスクールを開校しています。
この学校はビジネス習字教育のリーディングスクールとして、プロのペンマンとエングロッサーアーティスト、またペン習字教師の教育を行うことを目的として作られたそうです。卒業生は簿記係や速記係、商用種類のデザイン・制作を行うような仕事に従事することを目的として輩出されていたと考えられます。同スクールが掲載した広告には習字を覚えれば有利な雇用の機会に恵まれ、最高年収5,000ドルを得ることが可能だと表記されており、それが現在の価値でいくらほどなのかはわかりませんが割と収益性の高い職業のひとつだとされていたようです。
授業は1年中行われており、学生はいつでも入学可能だったと言われています。また就職課があり、学生たちの職探しをサポートする制度もあったようです。
1864–1918年)
また同社(Zaner-Bloser)は雑誌メディアの運用も行っており、ビジネスライティングの書き方を掲載したり、商業キャリアを目指す人たちに向けての記事を発信していたようです。企業で働く上での心得や注意点なども実例とともに紹介されており、また公立学校やビジネススクール運営者が生徒に対してどのようにあるべきかなどと言った考えも書かれています。
雑誌には様々な企業&個人向けの広告枠も設けられていて、スチールペンやタイプライターなど製造会社の商品紹介、速記やビジネスライティングの通信講座の案内、書籍の紹介、エングロス(卒業証書など)の制作請負、などといった内容が掲載されているようです。
スクール&雑誌メディア運営を通じて、ビジネスシーンで通用する人材を輩出することを目的とし、また実際に同スクールの卒業生には著名なペンマンが散見されたと言われているようです。
・・・加筆途中・・